2011年4月1日金曜日

2011年4月1日16:56に受信したメール

件名:Re: 山根です。面談について


山根さん


返答に時間がかかりましたが、京都市立芸術大学の准教授として立ち位置から、現在休学中の山根さんへの返答という形にしみてます。(この返答と先回の返答を公開してください。)

学生個人の権利・保護にかかわるものとして山根さんが位置づけた「公開の意味」について僕なりに考えています。記録・公開になることで、日本の大学という制度に於ける、教員と学生の関係の在り方の実験と実践として価値ある事だと考えます。
撮影許可についてですが、現時点では、山根さんに関わる個人面談のみとします。
講読会や他のゼミに関わるものは、参加する他の参加している人達の合意が得られれば、ば可能とします。
次に、面談の場所ですが、山根さんとの面談は、公開が目的なので、閉じた個室の高橋研究室ではなく、空間が開けた多数の目が或る場所が良いと考えます。具体的には、学生食堂ロビーなど。

以上が、京都市立芸術大学の准教授として立ち位置から、現在休学中の山根さんへの返答をした高橋悟でした。しかし、このような言葉と記録に関わる部分での、教員と学生という制度的関係のみが、生産的な場へと将来もつながっているのかは疑問です。時間外・学外・卒業後など、あいまいな場・関係もありますが、大事にしたいことは、上下関係や、正面切ってにらみあう関係でなく、横並びの関係で、そこから互いの思考が拡がる可能性を期待できる、そのような場と関係です。それは、卒業単位取得を優先目的にした大学ではなく、中世イタリアにあったような、知を共創するような「大学」のイメージかもしれません。


次に、高橋から山根さんにお送りした内容の再確認を以下にします。



面談の目的を整理します。
1)10月まで休学となるが、修了審査、作品制作など時間的な問題を考慮すると4月から授業に参加する事が望ましい。

このことに関して、現在、どう考えてますか?


2)休学以前からの問題であるが、他者の作品には論理的に語れるのに、自己の作品に関しては、制作行為とコンセプトの関係がうまくいかないという問題にどう対応するのか。

美術作品としての身体や手作業からの展開と、映像を使用したメディエーション(媒介)や、アクティビズムなど山根さんが関わっている問題をどうむすびつけるのか。



3)「大学院生というのは、自分自身に創造的な「問題」を与えることができること。」というのが私の定義です。アメリカで私が大学院生であったとき、さらに、カーネギーメロン大学や、ミシガンの大学院生も、この「問題を自分で探し、自分に与える。」ということを前提に入学し、その問題意識を他の学生と話しあうことで、多角的に検討するということをおこなってきました。これが、大学院と学部の大きな違いです。

私が考える大学院生の役割は上記のものです。


4)休学中に期待されていることは、上記の「自分自身に創造的な「問題」を与えることができること。」について、「正面から向き合うための期間」です。

休学前に山根さん自身が休学理由として、のべていたことと考えていますが、齟齬があるかもしれません。こんご記録・公開になることで、確認できることは良いことだと思います。



5)「講読会」は、毎週1回おこないます。の前期の目的は、
a)学生間で、読み、書き、話すことができるフォーラム形成のための準備。
     b)美術や思想を巡るさまざまな基本的な概念についての共通の理解の準備。
     c)現代思想や美術などで流通している概念の理解と検証。
日程は構想ゼミのオリテンテーションでに確認します。

山根さんから、

高橋さんの「(講読ゼミにで扱うようなある事柄を)ポジティブにとらえても批判的に捉えてもいい」という発言を、高橋さん自身やゼミの態勢としてどちらの側にも立ってもいいし、議論をする用意があるという意味だと捉えた。そして、「複雑なことを複雑に考える」のは必要なことだろうと思う。しかし、複雑だと思い込んで、「解決しない」ということを受け入れるようなことはうちは望んでいない。これに、要素を排除して議論を簡単にしようという意図は含まれていない。
という返事でしたが、すこし視点がちがいます。「高橋さん自身やゼミの態勢としてどちらの側にも立ってもいいし、議論をする用意があるという意味」ではなく、まず基本的にみんなで読み、話す素材・本に関してです。まず、内容を理解しようとすること。次の段階として、その内容に関して、賛同・批判をするのが手順だと考えます。グループで話しあう場の形成が目的なので、あたまから、否定的な態度で参加しても、他の参加する人達に生産的な場となるとは思われません。



6)「構想ゼミ」は、個人面談とグループディスカッションを隔週に行う。学部上級生と大学院生共同

個人面談は、必要に応じて学生から、もしくは、担当教員から声を掛けてきめるということにしています。


7)「災害」と芸術に関しては、ゼミで意見を交わすことが生産的だと考えます。そのことで、それぞれの人達の考える社会・芸術・制度にかんする認識の差異や同一性が見えてくるはずです。あるいみでは、コンフリクトを生む場でもあると思います。一方で、柄谷行人が取り上げた「災害ユートピア」のように、権力がもたらす制度・秩序が行使されている間は、「他人と競合したり、警戒しあったり」という状況に置かれていた個人が、制度・秩序に、揺らぎが生じた時には、「他人とつながり、たすけあいたい」という意識のもとに、自発的に共同体を形成するという可能性をアートとの関係から探求したいと思います。また、僕個人としては、マルグリット・デュラスの「ヒロシマ・私の恋人」という小説に於けるアプローチに別の可能性をみつつあります。


山根さんのメールで、「(震災などに対し)芸術は何もできないし、するべきでない。」という発言に対し、曖昧な態度をとったことを後悔している。うちがそう思わなかったことしか言っていない。そのメールを読んだには怒りを感じたのにも関わらず、ビデオの中にはそうではない自分が写っている。この人物をうちが好きになれることはないだろうと思った。芸術を用い何かをしている人がいるとわかりながら、その行為が何か役に立っているという思いを持ちながらこの発言を放置する態度は認められない。
となっています。
メールで紹介した淺田さんや、建畠さんの立場ではなく、僕自身の立場は、「(震災などに対し)芸術は何もできないし、するべきでない。」とはいっていません。注意して最初のメールもよんでみてください。そこを基盤に、現在、プログラムを準備しています。しかし、そのプログラムをアートとしえ成立させ位置づけるのか、アナ-ザーモデルとしての実践として捉えるのかは、関わる本人ではなく、社会や制度がきめつけることだとも考えています。
最も、聞きたいこと、聞かせてほしいかったことは、現在、もしくは将来にむけて、(震災などに対し)どのような立場で、どのような行動をする(行動をしない)気持ちがあるかということです。


9)次回の面談では、まず、プロジェクトの構想や、言葉で書いたものをもってきてください。そこから具体的な話しがはじまると考えます。

返答が遅れましたが、以上が高橋悟からの返答です。山根さんからの返答をまっています。

(サーバーの都合で、返信エラーがでることがありますが問題ありません。)

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